Thursday, January 26, 2006

偏在するプレゼンス

Photo by Clare Yuko


水曜日の夜は楽園ディクシャに参加してきた。まだ引越しも落ち着かず、慣れない仕事も始めたりで最近ちょっと疲れ気味だったので、この日の楽園のヒーリングディクシャ&瞑想が私にはとてもありがたかった。ヒーリングディクシャをさせて頂きながら、自分の方がヒーリングされているように、背中の真ん中から温かいエネルギーが全身に広がっていった。瞑想の後少し体をほぐす感じで肩を動かしていると、横に座っていたクレアゆうこさんが、背中に手を当ててヒーリングをしてくれた。終わったあと、うっとりとしながら、ゆうこさんにありがとうのハグをした。するとゆうこさんもしっかりとハグしてくれる。その時突然、私の前にあるビジョンが映し出された。

広大な大草原の中で、私は周りにある花や草や昆虫たちと戯れている。とても自由で体が風になったように軽い。その感覚を楽しんでいると、そこに繊細な感じの青年がニコニコしながらやってきた。この人は今の夫である事、そして私はこのビジョンがどこか過去生のものだと気がついた。この情景、知っている。でもここはどこだったっけ?思い出せない。。。

ぼんやりとそんなことを考えながら、ゆうこさんがハグしてくれる温かさにうっとりとしていると、彼女がゆっくりと体を離して聞いてきた。「ゆみちゃん、ギリシャって行ったことある?」え?!ギリシャ?行ったことないよ。でもそういえば、ずーっと昔に、ギリシャにいたことあるよ。「プレゼンスがね、ゆみちゃん、ギリシャだよ、って言ってるよ」

ゆうこさんとハグしながら、インドのコース中でさえもビジョンなど見なかった私がビジョンを見、そして「ここはどこ?」と心の内で質問をしたとたん、ゆうこさんのプレゼンスが答えをくれた。私達は呆然としながらも今起こったことを考えて笑ってしまった。

プレゼンスってすごい。みんなそれぞれのプレゼンスを見ているようではあっても、それぞれの「顔」や「名前」はただ一つずつの側面に過ぎず、根源は全て同じプレゼンスで、すべては一つで、繋がっているんだということを再び体験させられたような気がする。

ゆうこさんとは、私がまだミネソタでいたときに、私が彼女のブログを読んでファンになり、日本に里帰りした時にひかりっ子くらぶに参加させて頂いて知り合った。その後も、インドに行く前の不安定な時や、個人的な苦しみの中にいたとき、彼女がいつも助けてくれていた。きっと何か深いご縁を頂いていると想う。けれども、この体験は、それだけではないような気がする。私のプレゼンスも、ゆうこさんのプレゼンスも、そして全ての人たちのプレゼンスも、皆繋がっている。だからそのつながりに波長を合わせたとき、この肉体の3次元レベルでもこんなことが起こるのだ。

今までも、全ては繋がっていると感じる瞬間が確かに幾度もあった。そんなふうに実際の出来事としての体験が何度か続くと、それは「考え」たり「信じる」っていうレベルではなくなってしまう。何かを知るとき、それは信じるものではなくそこにただ「在る」ものになる。。。バガヴァンが、「信じる必要はありません。そうではなく、私を発見して下さい」といっていたのは、こういうことなのかもしれない。この偏在するプレゼンスは、人間の脳では計り知れない。これからもいろんなものを見せてくれることだろう。この次は何がやってくるのかな???

この件のゆうこさんの日記はこちら:
http://plaza.rakuten.co.jp/clareyuko/diary/200601250000/

Tuesday, January 17, 2006

集団の祈り

Photo by Masahiro Masuno

12月の21日間コースは、9月よりもやはりパワーアップしていた。3ヶ月くらいしか経っていないし、今回はそれほど前とは変わらないだろうとタカを括っていたが、それはあてが外れていたことになる。やはりディヴァイン・プレゼンスは日々拡大し日々強力になっているのだ。それはきっと、コースのことだけに限らず、私たちの内にあるそれ、もきっとそうなのだろうけれど。

すべては自動的に起こっていた。それは、本当に自動的なのだ。コース中にあったのは、少しの講義と少しの瞑想と、たまに映画とたくさんの休憩、たくさんの祈り、プレゼンスを讃える儀式。。。参加者がしなければならないのは、ただ望みを持ってそこに座ることだけ。。。それは見ていて感動的なプロセスだった。ただ儀式に参加し、それぞれに祈る、すると明らかにプレゼンスが強力にやってきて、その人に必要なものを与えていく。。。

ここまでは、9月もおそらく同じだったのだろうと思う。ただ、そこで自動的にいろいろな事が起こっていく過程がよりはっきりと見えただけかもしれない。9月のコースは、プレゼンスの目覚めに始まってプレゼンスと共に生きるところで終わった。12月は、プレゼンスの目覚めから始まって、プレゼンスと共に生き、そして集団として祈る事(Collective Prayers) に行き着いていた。それはそれはたくさんの祈りの時間があったのだ。

もはや、個人がプレゼンスと共に生きるだけではなくなっていた。個は存在しながらも、そこにはより大きなグループの意識が働いている。すべてはつながっていて、グループ全体のために祈る事で、個も進歩する。そしてグループとは、家族から始まり、友人、国、そして人類全体のことだ。はじめは小さなグループのために祈る。そのうちにその周りもすべて一つであることに気付いていく。。。そのような集団の祈りとは歓びの祈りであり、強力なエネルギーを持っている。たった一人ぼっちだと思っていた細胞は臓器となり器官となり、グループとして体全部に大きな影響を与えていくのだから。

私自身、ホントに長い間、自分は一人ぼっちだと思っていた。どこに行っても誰と一緒にいても完全に受け入れられる事はないという、深い深い孤独感とともにこの30年を生きてきたのだ。その孤独感が、この集団の祈りのなかで、まるで深い雪に閉ざされた北国の雪が春の光のなかで解けていくかのように、ゆるやかな流れをつくって「偉大なるもの」の中にとけこんでいったのだ。私は泣いた。男性グループの中での女性スタッフだったので、ダーサジと参加者の方たちが一緒に手をつないでいた中に入ったわけではない。実際には一人ぽつんと祈っていたにもかかわらず、これほど自分が何かの一部であると感じたことはなかった。うれしかった。

それは、大きな解放であり喜びだった。

Tuesday, January 10, 2006

帰国報告

12月末にインドから帰国してからというもの、引越しをしたりお正月で実家に帰ったり、ばたばたと過ごしながらアッという間にこんなに時間が経ってしまった。インドから帰ってからしばらくはミネソタから神奈川県への移動のためにホテル住まいで、お正月明けに新しい場所に引越しをした。とは言ってもまだミネソタから送った服や家財道具類はこちらに着いておらず、空っぽの家の中での生活である。物はもういらないかなぁ、と思っていたけれど、やはり必要な物がないと不便だ。必要以上にはいらないけれど、物質もやっぱり肉体を持って生活をしていく上では大切なものだ。ここがある程度満たされていないと、日々の生活がサバイバル以上の物になるのは難しい。

12月の今回のコースには、スタッフとしての参加で、参加者の方のお世話や通訳をさせて頂きながら、私自身も気づきや理解が深まり、とても貴重な体験をさせてもらったと思う。スタッフの仕事は思った以上に忙しく、睡眠時間や食事の時間もままならないことが多くあり、ひたすら現実体験の中での気づきであり理解であり、9月に参加者としてインドへ行ったときとはまた違った味わいだった。

この運動の中で何かの役に立ちたい、神様の乗り物のひとつとしての役割をはたしたい、たくさんの人たちが解放されていく過程で何かできることがあるなら嬉しい、という強い思いがあったにも関わらず、自分が疲れてくると「今は勘弁して~」と思ってしまうし、食べる時間がなかなかとれないと、他のスタッフが忙しく働いている時でさえ抜け出して一人でも食事を済ませようと思う。「人の役に立ちたい」と思っていたのは、無償の奉仕なんてものとは程遠い、条件付で自分勝手な、私自身の勝手な欲求にすぎなかったのだと、ウンザリするほど思い知らされてしまった。

それでもやはり、参加されている方たちの表情がどんどん変化していく様子を間近で見ていくのは大きな喜びだった。私は、21日間コースの男性の講義通訳に入っていたのだけれど、はじめは、肩も顔もこわばっていて、皆さんさぞかし重いものを背負ってここまでやってこられたのだろうなぁ、という表情だった。それが、コースが終了に近づくころには子供のように宿泊棟の中を嬉しそうに小走りしていたりして、とてもかわいいのだ。男性にこの言葉は失礼なのかもしれないけれど。。。そして、私の自分勝手な欲求に基づく条件付の仕事でも、少しは役に立てたのならそれはそれでアリかな、とこれもまた勝手に考えることにした。